
井上が直面している「壁」
このストイックな井上の考え方は、「斬られて死ぬシーンを描くためには、一度自分が斬られて死の間際を見なければならない」ということになりかねず、判断の難しいところであるかもしれない。井上はしかし今、その方向性を選択しようとしているようだ。
そういう意味での、井上の直面する「壁」が今あるのだ。
「漫画家」という職業を背負う数多の人々の中で、これほどつきつめて自分の画を考えている人が、作品を追求している人が、他にいるのだろうか。井上の『バガボンド』への思い入れは、私たち熱心な読者の想像をはるかに凌いでいるのかもしれない。
『バガボンド』は、得難い作品である。もちろん当初から傑作だったと言うつもりはないが、吉川英治の原作から解き放たれた時から、井上は日本人に新しい宮本武蔵像を提示し続けているし、その武蔵の世界を通じて、「今」という時代に何かを確かに問いかけてようとしているように思う。
その「何か」―― 。
「壁」とは、漫画家としてのキャリアの壁というだけではなく、井上雄彦というひとりの人間がその人生において「今、直面する壁」でもあるのかもしれない。漫画を描くことが作家の日常である限り、その現場とそれ以外のプライベートを完全に離別することは難しいのではないか。作家や芸術家にとって、作品と現実の間には、かくも危うい境界線しかないように思うのだ。
それはどんな壁なのか。
その壁の向こうにどんな答があると思うのか。